重要文「き」「けり」
今回は重要文の第三回目で「き」「けり」です。
今回は過去の助動詞「き」「けり」になります。「き」は直接経験の過去とか、経験過去とか呼ばれ、「けり」は間接経験の過去とか伝聞過去とか言われていますが、呼び名はどうでもいいんですよ。要するに、「き」は自分の経験、「けり」は「他人の経験」という違いが押さえられれば問題ないと思います。訳し方はどちらも「~た」でOKです。「けり」を「~だそうだ」と訳してももちろん、問題ありませんが、「~た」の方が自然に訳せる場合が多いです。ただ、現代語訳するときに、「き」のつく文を、必ず主語を「自分」として補って訳さないといけないか、「けり」を見たら必ず文を書いている人以外が主語になるのか、といったら、実際はそうとも限らないんですね。昔の人も結構混同して使っているからです。
たとえば、聖書の冒頭の有名な言葉「はじめにことばありき」では、「き」という助動詞を使っていますね。「神様の言葉によって世界ができた」という、とてもインパクトのある文章です。もしここで「はじめに言葉ありけり」なんてあったら、「言葉があったとさ」みたいな感じで、神様の威厳がなくなってしまいますね(笑)
ですから、別に自分が直接経験した過去でなくても「き」が使われています。
また、『法句経』という仏教の経典の中に、こんな一節があります。
「人は、黙して座するをそしり、多くを語るをそしり、また、少しく語るをそしる。およそ、この世にそしりをうけざるはなし。ただ一向にそしらるる、ただ一向にほめらるる、かかる者、過去にもあらざりき。現在もあることなし。未来にもあることなからん。」
人はだまってすわっている人を批判し、多くを語る人を批判し、言葉少ない人を批判する。およそ、この世に、批判を受けない者はいない。ひたすら悪く言われ続ける人も、ひたすら褒められ続ける人も、過去にはいなかった。現在もそんな人はいないし、未来にもそんな人は存在しないだろう。
ここで使われている「あらざりき」(いなかった)も直接経験というわけでもありませんね。でもこの文のように漢文などの固い文体を訳した文というのは、基本的に過去形は「けり」ではなく「き」を使っています。特に近世以降は「き」と「けり」はほとんど混同して使われています。なので、それほど神経質に問題を解く必要はありません。仮に「き」「けり」の判別について、入試の設問に出たとしたら、その場合には「き=自分の経験」か「けり=他人の経験」という区別と「けり」が詠嘆かどうかの区別ができれば解ける問題になっているはずです。あいまいなものは入試に問われません。
私が『法句経』のこの一節に初めて出会ったのは、確か大学生の時でした。
どんな道を選んだとしても、すべての人に褒められることはなく、誰かしらの批判に合うものです。
特に目立てば目立つほど、批判は大きくなるのが世の常です。
でも、自分が 自分の内なる声に耳を傾けながら精一杯生きているならば、少なくともそこには“自分の魂”があります。虚飾だけで魂が不在の人生になるよりも、ずっと重く、ずっと価値ある人生だと思います。
「自分に悔いのない生き方とは何か」を常に自分に問い続ける自分でありたいな、と、思わされた1節です。
重要文③ 演習プリント 「き」「けり」問題
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重要文③ 「き」「けり」解答
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