古典を学ぶ意味4
〜宗教は、「この世の生命やこの世の幸福を粗末にする」ものであってはいけない〜
キリストは、「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と語っていますので、聖書では、この世の幸福を半ばあきらめているように見えたりはしますが、
それは、時代性も影響しているのではないでしょうか。
イエス・キリストの生きていた時代、キリストの弟子たちは漁師や娼婦など、身分が低く、貧しい人が中心でした。
方丈記を書いた鴨長明が厭世的なのも、鴨長明の生きた時代が、飢饉や津波、地震、大火などに見舞われた悲惨な時代であったことが大きく影響していると、私は考えています。
つまり、現世への希望が見いだせない時代だったからこそ、人々は来世に希望を求める宗教を心の支えにしたのではないでしょうか。
キリスト教では、ルターの宗教改革がおこり、プロテスタントの教義で、「働いて稼いでも(お金持ちになっても)天国に入る道」が説かれたことにより、資本主義社会(現世での幸福や発展を求める社会)と両立させてきた歴史があります。
そもそも、ルターが、キリスト教の宗教改革の道を切り開いたのは、「天国に入りたいなら、免罪符を買え」と言って信者から献金を集めた教会に対して、「良心とつながることによってのみ人は天国に入れる」とルターが主張した所にはじまりました。
「教団に献金すれば天国に入れる」と言って、子供が一生懸命稼いだバイト代を本人の意向に反して取り上げること自体、
統一教会の信者たちは、
キリスト教の歴史を、本当に勉強しているのだろうか、という疑問がわいてきます。
統一教会問題にしても、
オウム真理教問題にしても、
もう少し、彼らが高校の社会科や古典の授業で、宗教の基本的な教養を学んでいれば、
自分達がやっていることが、歴史的にも宗教的にも
決して正義(正統)とはみなされないことに、気付けたのではないか、と、考えると、
教育にたずさわる側の人間として、
ある種の責任のようなものを感じますし、
なんだか、今の日本の状況が残念でなりません。
〜仏教と似て非なるニーチェの永劫回帰〜
近代哲学の流れの中で、「実存主義哲学」という哲学があります
その中でかなり異質な哲学者として、ニーチェという人がいます。
私はニーチェは、若い頃は、あの独特な文体が好きだったのですが、
今は、もう読まなくなりました。
それは、多分、ニーチェのニヒリズムの思想が、人間の「軸」を徹底的に壊そうとする破壊性を持っている、と、私が感じたからかもしれません。
彼は徹底的なニヒリズムの中から、「権力への意志」を持って立ち上がることを説きます。
しかし、当時、欧州の人達が価値観の軸としていたキリスト教信仰を否定した後、ニーチェを待ち受けていたものは、残念ながら、「人生観の軸を無くして発狂する晩年」でした。
ニーチェにとって、宗教に頼る人は、「永劫回帰」という虚しい人生の現実を直視できない弱い人間にすぎず、人間は、そうした宗教や信仰に人生の意味を見出すような現実逃避としての信仰を捨て去るべきだ、と、考えました。
天国にかえることにすがるような信仰自体、弱者のルサンチマンにすぎない、と。
仏教は、執着(この世の欲)を断つことで、覚者となれ、と、教えているのに、
徹底した「ニヒリズム」の底から、権力への意志を以て立ち上がろうとしたニーチェの生き方は、
私から見ると、
ニーチェ自身が実は、最大の「弱者」であったことを表しているようにも映ります。
(ニーチェの影響を受けたヒトラーと同じように、来世にすがるクリスチャンを軽蔑しながら、結局自身はこの世の権力、生への執着の中で発狂するという末路)
(私の教わった大学の先生はクリスチャンでしたが、「ニーチェこそ本当は神を求めていた真のキリスト教徒だ」と言っていましたので、私のこの解釈は浅いのかもしれませんが。)
ニーチェは、文体が美しいので、惹き込まれる部分もありますし、
若い頃は、
誰もがハマることもあるかもしれません(私も中学生でいわゆる「太宰病」になりました。ニヒリズムには誰もが一時はハマるものなのかもしれません)が、
社会人になり、母親になり、
たくさんの愛すべき人に出会い、
「生きてて良かった」と思う経験(この世の生に意義を見いだせる経験)をたくさん通った結果、
いつの間にか「ニーチェにハマっていた昔」さえも、「有意義な経験」だったと、懐かしむようになりました。
~パスカルの言葉とキルケゴールの言葉~
そして、今は、
パスカルが
「信仰(来世があると信じること)とは最も美しい賭けである」
と語った通り、
ニヒリズムの中を生きたニーチェよりも、
宮澤賢治や鴨長明のように、
何らかの信仰(来世への希望)を持って生きた人の人生に
魅力を感じるようになりました。
来世木曾殿と一緒に生まれることを信じて自害し果てた今井四郎の生き様や、
「この世の肉体的生存」よりも重い価値があることを信じて義に殉じた子路など、
来世を信じて、
誠(まこと)の中を生きた様々な人間のドラマの方が
私にとっては、
「自分への美しい贈り物」だと
感じるようになりました。
実存主義哲学者のキルケゴールは、
「私が求めている真理は万人が認める客観的真理ではなく、自分にとっての真理なのだ。私がそのために生き そのために死ねるような、私にとっての絶対的真理、、それを私は見つけたいのだ」
と言っています
「自分の生は無意味なのではないか」
「なんの為に生きなければならないのか、死んでしまいたい」
と、思うような瞬間は、誰もが経験すると思います。
「なんの為に生きているの」
と言われたら
月並みですが、私はこう答えます
「それを知るために」と。
昔の人々が残してくれた様々な生き様「贈り物」を勉強する(=古典を学ぶ)ということは、
そのための、1つの手がかりともなると、私は思っています。
~勉強は人を救うもの~
どうか「勉強」というものを、
「自分を追い詰めるもの」だと捉えるのではなく、
「自分を救うもの」だと思いながら、
学んでいってくれたなら、
古典を教える側としては、
それに勝る幸せはありません。
(教員はテストで点を取らせようと頑張って教えるけれど笑 でも本当は)
テストで点数が取れなくてもいいのです。
学びの中で、何か喜びや発見があれば、
あなたのその勉強は決して「無駄」でも「徒労」でもありません。
せっかく生まれたのだから、
せっかく今の環境が与えられたのだから、
あと3ヶ月、ぜひ「楽しんで」学ぼう、と思いながら
来年も、学校に通ってきてくれたら幸いです。
※ 今日からお正月まで「スマホ断ち」をしますので、来年の更新は冬期休暇明けになると思います。私の拙い文を読んでくださった読者の皆さん、大変ありがとうございました。来年も何卒よろしくお願いいたします