つれづれに④ (2023.4.30)
~平等社会を目指した共産主義~ マルクス主義をこれまでブログで批判してきました。 ただ、私としては、「左派(リベラル派)」や「共産主義」の目指す「平等」の理念そのものを否定するつもりはないんです。 近代化の原理として、「自由」と「平等」がありますが、自由な社会を目指す資本主義社会と、平等な社会を目指す共産主義社会の対立がおこり、特に共産主義社会は、ソ連の崩壊を経て、「その理論」についての欠陥は、もう、歴史的に示された通りです。 統制経済は貧しい人達を救うことにはならず、むしろ経済発展の妨げとなり、現在、習近平が目指す「共同富裕」も、実態としては、平等という美名のもとに、資本家から富を奪い、国民の自由を破壊するものになっています。 彼ら(共産主義にひかれる人達)の情熱自体は、もともと純粋なものだったと思うんですね。「平等社会」を願う気持ち自体は、私は決して「悪」ではないと思うし、 トルストイの「イワンのバカ」のような世界と、本来の(マルクス以前の)良心的な社会主義思想家の理想郷は近いのではないか、と思っています。(私はトルストイの民話が大好きなんですけどね。) だから、「唯物論」「暴力革命」が好きではないので、私自身は、反共(反マルクス主義)ではありますが、 ただ、反面、キリスト教と社会主義も「平等」「弱者に優しい社会」を目指す点において親和性があることは事実で、実際問題として、キリスト教徒に、左派の人も多いことは知っていて(私の大学の恩師は左派でクリスチャンでした)、 彼らが決して暴力的な人ではなく、温厚な、尊敬できる人達であることも知っています。 「平等」(弱者の救済)という理想を目指すのは、大切なことだと思っていますし、 清貧を美徳と考えるキリスト教徒の生き方も美しいと思っていますが、 ただ、今のアメリカ社会は、おそらく、そうした良心的な民主党支持者が理想として描いていたような平等社会とは、かけはなれたものになっていると感じるんですよね。 ~自由と平等は両立しない~ 近代化の原理としての、「自由」と「平等」ですが、この二つの原理は、そもそも両立しない、と、京都学派の哲学者の田辺元が指摘をしています。 「自由」をめざすと、小さい政府(減税し、国の機関が小さくなり、国民一人一人が自己責任で生きていくことを求められるが、失敗のリスクもあり、格差がひらく)社会...