元服

 以前、私の担当するクラスで紹介したことがありますので、知っている人も多いかと思いますが、昭和の時代の、ある少年の作文を、再度掲載します。

私が、この作文を初めて読んだのは、中学生か高校生ぐらいの時かと思いますが、恩師の中山先生に勧められて読んだ本の中に書かれていて、とても、印象に残っている作文です。

題は「元服」です。


元服


僕は今年三月、担任の先生からすすめられてA君と二人、K高校を受験した。


K高校は私立ではあるが、全国の優等生が集まってきている、いわゆる有名高校である。

担任の先生から、君たち二人なら絶対大丈夫だと思うと強くすすめられたのである。

僕らは得意であった。父母も喜んでくれた。

先生や父母の期待を裏切ってはならないと、僕は猛烈に勉強した。

ところが、その入試でA君は期待通りパスしたが、僕は落ちてしまった。

得意の絶頂から奈落の底へ落ちてしまったのだ。
何回かの実力テストでは、いつも僕が一番で、


A君がそれに続いていた。それなのに、その僕が落ちて、A君が通ったのだ。

 誰の顔も見たくないみじめな思い。


父母が部屋に閉じこもっている僕のために、

僕の好きなものを運んでくれても、優しい言葉をかけてくれても、それが余計にしゃくにさわった。

何もかも叩き壊し、引きちぎってやりたい怒りに燃えながら、布団の上に横たわっている時、

母が入ってきた。


「Aさんが来て下さったよ」と言う。


僕は言った。

「母さん、僕は誰の顔も見たくないんだ。特に世界中で一番見たくない顔があるんだ。

世界で一番いやな憎い顔があるんだ。誰の顔か言わなくたってわかってるだろう。

帰ってもらっておくれ」

 
 母は言った。

「せっかくわざわざ来てくださっているのに、母さんにはそんなこと言えないよ。

あんたたちの友達関係って、そんなに薄情なものなの。ちょっと間違えば敵味方になって

しまうような薄っぺらいものなの?母さんにはAさんを追い返すなんてできないよ。

いやならいやでそっぽをむいていなさいよ。そしたら帰られるだろうから」

と言っておいて、母は出て行った。

入試に落ちたこのみじめさを、僕を追い越したことのない者に見下される。

こんな屈辱ってあるだろうかと思うと、気が狂いそうだった。

二階に上がってくる足音が聞こえる。布団をかぶって寝ているこんなみじめな姿なんて見せられるか。

胸を張って見すえてやろうと思って、僕は起き上がった。

戸が開いた。中学の三年間、A君がいつも着ていたくたびれた服のA君。

涙をいっぱいためたくしゃくしゃ顔のA君。


 「B君、僕だけが通ってしまってごめんね・・・。」

 
 やっとそれだけ言ったかと思うと、両手で顔を覆い、駆け下りるようにして階段を降りていった。

僕は恥ずかしさでいっぱいになってしまった。

思い上がっていた僕。いつもA君になんか負けないぞと、A君を見下していた僕。

この僕が合格して、A君が落ちたとして、僕はA君を訪ねて、僕だけが通ってしまってごめんね、

と泣いて慰めに行っただろうか。


「ざまあみろ」と、余計に思い上がったに違いない自分に気がつくと、


こんな僕なんか落ちるのが当然だったと気がついた。

 彼とは人間のできが違うと気がついた。


通っていたらどんな恐ろしい一人よがりの思い上がった人間になってしまったことだろう。


落ちるのが当然だった。


落ちてよかった。


 本当の人間にするために天が僕を落としてくれたんだと思うと、


悲しいけれども、この悲しみを大切に出直そうと、


決意みたいなものが湧いてくるのを感じた。
 
 僕は今まで思うようになることだけが幸福だと考えていた。


が、A君のおかげで思うようにならないことの方が、


人生にとって、もっと大事なことなんだということを知った。
 
 昔の人は15歳で元服したという。


僕も入試に落ちたおかげで元服できた気がする。



※※


10代の頃は、ちょうど思春期で、自意識がとても鋭敏です。人間関係も濃厚で、ほんの些細な言葉に傷ついたり、他者との比較で、悩みます。成績、容姿、運動神経、家が金持ちかどうか、異性にモテるか、など、様々な点で、他者と自分を比較して 「自分が友達よりも上か下か」ということで心の中が振り回されることがあります。


私も、若いころは、本当に些細なことをくよくよと悩みました。

中学生の時に、不良グループに呼び出され、イジメにあい、

ケリとビンタを食らわされ、土下座させられた時には、

当時の自分にとっては、「世界の終わり」だと思うぐらい、生きていくのがつらいと感じました。


その後、様々な経験をつみ、大人になるにつれて、「イジメた側」の人達の「苦しみ」が見えるようになりました。

家庭環境に恵まれず、親の愛情がほしいけれど勉強もできず、成績も悪くて、親からはそっけなくされる。

そんな彼らが、親や友人からの愛情がほしくてほしくて、自分の存在感(重要感)を確かめたくて、

「目立ったことをすれば、他人からの関心を得られるのではないか」という思いから、非行に走り、学校のトイレでタバコやシンナーを吸い、暴走族に入り、バイクを乗り回し、水商売をして、懸命に社会や親に「訴え」ていた彼らの孤独や苦悩、そして「稚心」を、今は、理解することができます。


自分がつらかったのと同じように、きっと彼らもつらい悩みをかかえていたのだろう、、と、今は、思うことができます。


そして、そう思うことができるのは、今自分が幸せだからです。


人は、自分が幸福の中にいる時には、他者に対して優しくできます。

自分が不幸の間は、他者に対して優しい心は、なかなか沸いてこないものです。

自分より幸せそうな人に対して、どうしても「うらめしい気持ち」「つらく当たりたい」気持ちが 出て来てしまいがちです。


でも、「元服」(この作文)に出てくるA君だったら、きっと、自分が高校に落ちても、合格した友に「つらく当たりたい」気持ちは持たないのではないでしょうか。きっと、彼なら友の成功を「祝福できる」だろう、と私は思います。


なぜ、祝福できるか。

それは、A君にとって、友達の「幸せ」が自分の「不幸」ではないからです。

つまり、成績や学歴を「パイの取り合い」だと考えていないからです。

だれかがパイ(幸せ)を取れば、その分、「自分のパイ(取り分)が減る」と考えていないからです。


学校で、一緒に勉強し、競争し、切磋琢磨ている友達は、みな「仲間」です。


スポーツでも勉強でも、ライバルの存在、仲間の存在、というのは、自分の能力を磨く上で、とてもとてもありがたい存在だと思います。


みなさんは、ライバルがいる時と、いないとき、どっちが、がんばって勉強しましたか。どちらが、がんばって自分を磨きましたか。


私が、古典のテストで、「めでたし」該当者を 書きだすのは、成績優秀者を褒めたいから、というだけではありません。


テストの点数自体は、人格の優劣とは比例しません。


劣等感に悩むことは誰でもあります。


だけど、自分の能力を磨くために、「切磋琢磨できる環境」があることは、とてもとても幸せな環境だと私は思います。


そして、自分が目標とできるような友がいることもまた、とてもとても幸せな環境だと私は思います。


だから、この恵まれた環境を大いに「活かして」ほしい、と、私は考えて、めでたし該当者を発表しています。


「めでたし」該当者を見て、もし万が一にも、「この人のせいで、自分のパイが減った」と考えてしまうような

哀しい人がいたら、私は言いたい。


「あなたのパイは減っていません」

「パイを減らしているのは、成績優秀者ではなく、あなたの『心』です」と。


あなたを不幸にしているのは、友の存在ではなく、あなた自身の「心」です。


自分より上位の人の足を引っ張りたい、という、卑怯な心(稚心)は、捨て去りましょう。


そして、競争相手がいる、ことへの感謝に変えましょう。


もし、あなたが今の環境に、『感謝できた』なら、それは、あなたが、「パイを焼き始めた」ことを意味します。


あなたの価値は、他人の存在によって、減ってしまうような「もろい」ものではありません。


自分をそんな小さな、つまらない存在だと思ってはいけません。


あなたの幸せは、あなた自身が「焼く」ことによって生み出せるものです。


だから、この学校で、どうか、仲間とともに、

一緒にパイを焼きましょう。


他人のパイを羨む前に、自らがパイを焼け。


稚心を去れ。


それが、「元服する」(大人になる)ということだと思います。



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