古典を学ぶ意味~その2~

〜「奥の細道」「方丈記」にみる仏教思想〜

前置きが長くなりました。

伊藤貫氏ですが、この動画では、日本人の価値観の3つの柱の一つに、仏教をあげていました。

聖徳太子が仏教を取り入れて、政治を行ったことで、日本文化に、より哲学的深みが加わることになった、と。

古典文学を読むときに、その当時の人達の世界観が、仏教思想に多分に影響を受けていたことを知っておくと、理解が深まります。

逆に、筆者の思想的な背景を知らないと、物語が持っている深みを味わうことができません。

例えば、『方丈記』の冒頭部分で、この世の住まいを、「仮の宿り」と表現したり、『奥の細道』でこの世を、「幻のちまた」と表現したのも、そもそも、仏教においては、現世(この世)そのものが、 「仮の宿り」だと考えられているからです。

この時代、仏道修行していたお坊さんたちは、「悟りを開くこと=覚者となること」を目指して修行しました。

仏教的な世界観では、人間は、六道輪廻といって、「さまざまな世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を輪廻している(生まれ変わっている)存在であり、悟りを開くと、その「輪廻のくびき」から逃れることができ(生まれ変わらなくなり)、仏の世界に入ることができます。この「仏の世界」こそが「真実(実在)のもの」であり、悟りをひらいて仏の世界に参入することを「解脱(げだつ)」といいます。(悟りをひらいた人のことを「覚者」といいます)

つまり、仏教の世界観では、今私たちが住んでいる「人の世界」も含め、六道の世界は全て「仮の世」(夢幻のように、ほんの一時滞在する世界、いつか滅びてゆく無常な世界)だと考えられていたわけです。

「無常(いつか滅びゆく儚い世界)」=六道や現世」

「常(不変の実在)=仏の世界」


というわけです。


そして、仏教の輪廻思想の影響もあって、今世の人生を、旅に喩える、芭蕉のような考え方も、多く出てきました


道教でも、莊子の『胡蝶の夢』に見るように、現世を一瞬の夢のようなものだと考える傾向が強いです


「夏草や つはものどもが 夢の跡」


の句にも見られるように、


芭蕉は、仏教や道教の影響を多分に受けている人でした。 



〜ソクラテスやプラトンも輪廻を説いた〜


実は、この輪廻の思想は古代ギリシャのプラトンのイデア論にも通じます。

ソクラテスは、生前、若者たちに、輪廻について語っていました(プラトン著「パイドン」)

ソクラテスの弟子であるプラトンは、あの世(彼岸)の世界のさらにむこうに真善美のイデアの世界があり、イデアの世界こそが実在で、この世(此岸)は影絵のような幻の世界に過ぎない、と、考えました。(プラトン著「国家」)


〜ユングとグノーシス〜

輪廻の思想は、仏教特有のものではなく、古代のエジプト文明や、古代ギリシャ哲学や、キリスト教のグノーシス派という宗派でも説かれています。

心理学者のユングは、キリスト教のグノーシス派の影響を受けて

心理学をスピリチュアルな方面から探求しようとしました。

(ちなみに、フロイトは心理学に前世のことやオカルディズムを持ち出すユングとは対立しています。私はユングは好きですが、フロイトはあまり好きではありません。というのは、ユングの論理で考えると、「潜在意識」とか人類の「集団意識」は、仏教の世界観につながり、奥の深いものとなりますが、

来世やスピリチュアルなものを排除したフロイトの視点で仏教を解釈すると、

仏教は無神論、唯物論に位置づけられることになるからです。

私は有神論者なので、フロイトは支持していないのですが、ただ、人間の「無意識」について着目した点は1つの功績だと思っています

〜無神論者のフロイトと超能力者のユング〜

フロイトはユダヤ人ですが、ユダヤ人男性は、幼い頃に割礼という儀式を行うため、その影響で、普通の人間よりも、性に対する抑圧感をひどく感じてしてしまうことがあります。

フロイトが無意識の働きをやたらとリビドー(性欲)に結びつけるのは、ユダヤ人フロイトの割礼体験など、個人的な事情に依る部分が大きいのではないか、と個人的には考えていますが、これは私の勝手な憶測に過ぎないので、フロイト好きな人はごめんなさい。 

私の夫は学生時代に宇宙を統べる法則を解明したくて物理学者を志していた人なのですが、

ユング思想やグノーシス思想に出会ったときに、

こちらの方が真理の解明になるのではないか、

などと考えてイスラム教のスーフィズムや空海の密教など神秘思想にはまりこみ、

受験勉強をなおざりにして結局文転してしまった、、

という、ちょっと変わった人なのです

(私も変わっているので、似たもの夫婦ということですが、、。(笑))

※ただし、キリスト教では、「輪廻」思想は異端とされるため、グノーシス派は、異端とされて、正統なキリスト教会からは、弾圧されている。


〜複雑な親心〜

変わり者の夫が文転したお陰で、私は大学時代に今の夫と出会うことができ、根っから文系だった私も、私とは違う夫の発想に触れて、度々視野を広げてくれたので、

夫の文転には、私自身は感謝しています。

が、

もし、今の時代状況の中で、自分の息子や生徒が文転を言い出したら、ひょっとしたら、反対するかもしれないです。

(息子はバリバリ理系なのでありえない仮定ではあるが。)


人間というのは複雑な生き物で、

普段は「正しさを求めて生きよ」「大義を大切にせよ」などと、偉そうに子供や生徒に言いながらも、

私が文転を反対するのは、

将来その子に戦争に行って欲しくないという

ただの煩悩ではあります(正義感ではありません) 


私は近い将来、日本も戦争に巻き込まれる危険性が大きいと予想している(私の中では、安倍元総理の暗殺以降、その気持ちが強まってしまった)ので

日本でもし徴兵制が採用されたら、

若い文系男性が先に採用されるのではないか

という保身が働いてしまうのです。

(今もロシアやウクライナでは囚人が多数徴兵され、国民も多くが徴兵されているが、一般に戦争が起こると、無名な人から徴兵され、理系の技術者研究者は徴兵対象外になりやすい。)

ただ、万が一戦争が始まったら、うちの子供などは、戦争に行ってもよい、と言っていますが。本心はわかりません。


子路や今井四郎のように

己の命を 国家とか忠義とか

そういうもののために投げ出した人々の生き方を心から尊敬し、美しいと考え、

自分は 日本人がかつて軸としてきた古典や漢籍を教える仕事(文系科目を教える仕事)に就いていながら、

反面、

戦争の未来が緊迫して感じられるようになってくると

自分の知っている生徒たちや子供たちにはなるべく理系の研究職などに就いて生き残って欲しい、

などという考えが浮かんできてしまう点、

人間は「理性」だけでは割り切れないものなのだな、、

と、痛感します。


先の大戦では、日本兵は、特攻に行くときも「国の為に命を捧げることは尊いことだ」と信じ、

「(死後)靖国で会おう」と笑顔で旅立って行った英霊も多いと聞きますが、

一方で

日露戦争時の与謝野晶子の「君死に給ふことなかれ」というような感情は、人間の真実の一面であるし、

戦争中にこのような詩をよんだだけで、非国民だと糾弾し、石を投げるような人がいたことは、

やはり、同じ日本人として悲しいことではあります。


仏法を求めるに当たって、厳しさを求めた兼好法師も好きですが、

「家族の情は煩悩に過ぎないから断ちきれ」と言う兼好法師のようなお坊さんを

本居宣長が毛嫌いしたこともまた、

共感できる部分もあります

世の中は、理性や善悪二元論で割りきれるものではないからこそ、

多様な価値観や考え方が共存できる世界こそが、

芸術的で美しいものなのかもしれません。


〜先の世、後の世〜

仏教思想の影響で、古典文学には、よく「先の世」とか「後の世」という言葉が登場します。

「先の世」というのは、「前世」のことであり、この世に生まれる以前に、私たちが居た世界のことです。「後の世(のちのよ)」というのは、来世のことであり、現世の人生を終えた後(死んで肉体が滅んだ後)魂が移っていく世界(新たに生まれ変わる世界)のことです。

男女が深い恋仲になるときなども、「きっと、これは、前世(先の世)からの縁に違いない」と、平安時代の人達はささやき、そして契りを結びました

だから、古典では、「さるべき契り(前世から決まっていた運命)」という言葉も、よく登場します。

平家物語で、安徳天皇が入水自殺するときに、祖母で尼の時子が、「前世でよい行いを積んだため、現世では天皇という恵まれた身分に生まれましたが、今世の運は尽きたので、来世(極楽浄土)に参りましょう」と幼い天皇を説得する場面が出てきましたね。

このように、

大昔の日本人は、

不幸や不運などがあっても、

結婚、出産などの喜ばしい出来事も、

それは、前世からの縁やカルマなどで起こったことだと、考えていたわけですね。


〜続く〜



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