古典を学ぶ意味〜その3〜

 ~地獄の怖さを描いた書「往生要集」が大ヒット〜

平安時代、道長が帰依し、紫式部が信仰していた平安時代の有名な僧侶に、恵心僧都源信というお坊さんがいます。恵心僧都源信は、後に、芥川龍之介にも大きな影響を与えた僧侶です。(芥川龍之介の『地獄変』に登場します)

源信はとても優秀な僧侶だったので、ある時、天皇に呼ばれて説法を行うのですが、説法に感動した天皇は、たくさんのご褒美を源信に与えます。その中には美しい衣類もあり、源信はその美しい衣類を郷里の母に送り届けました

すると、母親は、このお土産を一式送り返して来るんですね。


そして、そこには和歌が添えられていました

後の世に

わたす橋とぞ思ひしを

世わたる僧となるぞ悲しき

訳:「後の世=来世(極楽浄土)」に人々を導く


橋のようなあなただと信じていたのに

(天皇に褒められたぐらいで舞い上がるような)

現世(この世)の 世渡りだけうまい貴方と

なってしまったことを、母は悲しく思います


源信よ、

(人々の魂を救う)真の僧侶となり給へ


これを読んだ源信は、反省し、心改めて修行に取り組み、やがて「往生要集」という本を執筆します。


当時の貴族の人達にとって、「往生要集」のインパクトは大きかったようで、

「往生要集」に描かれた地獄の世界があまりにも恐ろしいため、

藤原道長は、死後、地獄に落ちるのを恐れ、阿弥陀の救済を祈りながら、赤い糸で阿弥陀像と自分を結び、僧侶達に祈ってもらいながら、臨終を迎えました


〜仏教に系統した菅原孝標女〜

このように、平安時代は、権力や地位にとらわれず、仏教の信仰のため(来世のため)に生きることも、尊い生き方として認められていた時代だったので、

菅原孝標女なども、長ずるにつれて、

その時代の流行(←「源氏物語」という恋愛小説)に夢中だった少女時代をふりかえり

やがて、子供の頃の自分を、「幼かった」「浅はかだった」と考えるようになっていきます。

平安時代の貴族たちに信仰を集めていたお寺として、初瀬の長谷寺があることを、授業でお話しましたが


初瀬詣での場面は「源氏物語」「枕草子」「蜻蛉日記」「更級日記」など、入試で出題される有名所の古典文学のほとんどに登場してきます。


菅原孝標女も、長谷寺に詣でたことがありますが

初瀬詣の日程を、なんと、当時の宮中行事に合わせて決行するんですね。


宮中の行事をサボることは、貴族の「体面」「体裁」に影響しますが、

だからこそ、あえて、宮中行事の日に初瀬に参詣することで、

現世(無常なこの世)のはかない煩悩にすぎない「体面」「体裁」「地位」「名誉」以上に

仏道を求めて生きる己の姿(まことの道を求めて求道する自分)を、仏に示そうとしたわけです。



〜宗教と詐欺〜

宗教は、このように、「此岸(この世)」よりも、「彼岸(あの世、来世、浄土)」を重んじる傾向があるので、


科学の発達した現代人から見ると、


宗教を持っている人は、少し変わっている感じに映るかもしれません。


宗教は、あの世のことを説きますが、


一般人の我々には、それらが本当かどうか(死後、本当に六道輪廻しているかなど)は確かめようがありません。

信じていない人からみたら、そんなことに振り回されるのは、バカバカしく見えるかもしれませんね。

そして、困ったことに、あの世の話などは、「確かめられない」ことなので、それを利用して、詐欺まがいの商売を行う人も出てきます

インドのような多宗教の国では、「私が祈祷すれば病気が治るよ」といって、お金を集めるような人もたくさんいたりします。

その中には、本物もあるかもしれませんが、偽物の霊能者もたくさん紛れているのでしょう。

でも、(思想、信条、信仰の自由が認められている)自由主義社会では、

それが本物かどうかは、「客」が決めることで、教祖が決めることでもなければ、政治家が決めることでもない、と、私は思います。

客(信者)が増えれば、その宗教は大きくなり、客(信者)がつかなければ、その宗教(宗派)は消滅するのだから、

(違法行為は別として各人の心の問題に)政治が介入しすぎるのもどうかな、という感じがします。

「自称救世主」「自称覚者」「自称神」「自称観音」「自称超能力者」を名乗るような「詐欺まがいの宗教家」などは、歴史上もたくさんありました。別に珍しいことではありません。

〜宗教と家族〜

今日本では、統一教会の2世問題などが問題になっていますね。

子供ががんばって稼いだバイト代を、宗教に熱心な親が取り上げて教団に献金してしまう、などという問題なども報じられていて、気の毒だな、と、思いますが、


でも、信じていない人から見れば「詐欺」に見えても、

その宗教を信じている親からしてみたら、


「あの世では天国にいけるのだから、この世の幸せはがまんしろ」ということなんだと思います。

信じるか信じないかは本人の問題であって、

子供にまで押し付けていいものか、と思いますし

子供が信じたくないなら、自由にしてあげるべきだと個人的には思いますが、

親子となると、難しい面もあるのかもしれません

トランプの娘のイヴァンカは結婚した時に夫に合わせてユダヤ教徒になりましたが、

家族の宗教がそろわないと、家庭がなかなかまとまらなくなるということは、新宗教に限らず、伝統的な宗教でも起こり得ることなので、統一教会だけを批判のターゲットにしたところで、根本的な解決にはならないような気もします。

私の知人で、学生時代に統一教会に入信した人を何人か知っていますが

その中の一人は、卒業後、教団に入って共同生活を送り、高麗人参などの健康食品を高額で売るボランティア活動に参加していました。

家族の必死な働きかけで、洗脳から解かれて、今は脱会し、普通の主婦をしていますが、

洗脳から脱するまでは、家族も本人も、とても苦労していました。

今でもその時のこと(高麗人参を売って教団に貢いでいた時のこと)を振り返ると苦しい、と、言っています。

宗教への入信は、安易な気持ちで行うと、なかなかぬけられなかったり、家族でもめたりして大変なこともあるので、

経済的に自立していない未成年の段階では、

慎重に行うようにしないと、

後悔しやすい、ということは、知っておきましょう。


〜オウム真理教〜

仏教系でも、

オウム真理教が昔大きな問題になりました。


宗教は、この世の生命を軽んじる所が、ありますが、

その思想が極端に行き、


オウム真理教では、

ポアすること(人を殺すこと)が救済だという

誤った解釈がなされ、

サリンをばらまいて多くの人をポアする(殺す)ことで、地球が救済されるのだ、などという恐ろしい論理が作られ、

テロ計画が本当に実施されてしまう、ということがありました 。(地下鉄サリン事件)


仏教は、諸行無常を説くので、全てのものがいずれ滅びてゆく儚いものにすぎない、と、考えますが、


それは決して人生や人の生命を「無意味なもの」だと考えるニヒリズムとは違います。


釈迦は、「殺生(生き物を殺すこと)」を禁じているし、

キリスト教などでも、自殺を含めて、神から与えられた生命を殺すことは罪とされます

木曽義仲は、兼平と一所に死ぬことで、来世また同じ所に生まれ変わることを願ったと言われますが、

戦争のような、やむを得ない時以外は、

通常、人(他人、自分)の生命を殺めることは、キリスト教、仏教、イスラム教やユダヤ教、神道など、どんな宗教でも、悪とされて、禁じられている行為です。(人殺しは、ほとんどの宗教で「地獄行き」とされる)

平安時代は、陰陽道の影響などもあり、他人の死を見ることは「穢れ」とされたため、役人は死刑を執行したがりませんでした。(穢れがうつって、自分に不運なことがおこったり、来世のカルマになることを恐れたため。)

本来、殺人を禁じ、道徳の根拠となるべき宗教が、

最近はテロまがいのことや、詐欺まがいのことを起こしているのは、

日本人の道徳観が、なんだか、迷走してきたような気がします。






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