昔のキリギリスは、今のコオロギ①
~百人一首91番歌~
きりぎりす 鳴くや 霜夜の さむしろに
衣かたしき 一人かも寝む
藤原良経
先日、授業で解説した百人一首の91番歌ですが、クラスによっては、本当にさらっとしか解説できなかったので、
授業で解説しきれなかった良経に関わる歴史的背景を、(大学入試で日本史選択をする人のための)補足として、書いておきたいと思います。
~良経の死因は怨霊?~
藤原良経は、若くして亡くなったので、その死因については、暗殺説など、いろんな憶測があります。
その中に、面白い考察があって、その1つは、慈円の「祟り説(怨霊による祟りで良経に不幸が起こったと考える説)」です。
良経は、保元の乱で崇徳天皇と対立した藤原忠通の孫にあたりますが、「忠通の子孫は、崇徳院側に味方した忠実や頼長の怨念(おんねん:呪い)によって、苦しめられていた」ということを、慈円(※)が、書きのこしているのです。
※慈円は、兼実の弟。百人一首95番歌「おほけなく 浮き世の民に おほふかな わがたつ杣に 墨染の袖」を詠み、比叡山延暦寺の名僧として有名
日本にはそれまでも、菅原道真が天神様となったように、「祟りを恐れて神社を建てる」といった信仰形態がありましたが、鎌倉時代の人々もまた、「源氏物語」で描かれるようなそうした「怨霊信仰」を持っていました。(「あひみての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」を詠んだ藤原敦忠も、菅原道真の怨念のため、自分が短命であることを恐れていた)
忠通は、「法性寺入道前関白太政大臣」の名で百人一首に名前が載っています(この役職名は、最も長い日本語の例としてよく挙げられる)が、「入道」という名前からも見て取れるやうに、この家系は仏教に深く関わりを持っており、忠通の子供の兼実もまた、その後の鎌倉仏教の興隆に一役買った人物です。
当時の人々にとって「仏の救い」とは、「不幸や病気の原因である物の怪(もののけ)を祓う」ということであり、「物の怪の働き」とされるものの1つに、「政敵(怨霊)の呪い(怨念)」がありました。物の怪(もののけ)を退治する霊力(病気を治したり、怨念を断ち切り、不幸な出来事が起こらないようにする霊力)を持っている僧侶は、当時は、人々の信仰を集めていました。(空海は、祈祷によって疫病を鎮めたりしています。)
この時代の人々にとって、「政敵(怨霊)の呪いをどうやってかわしたらよいか」ということや、「死後、極楽浄土に無事に生まれかわることができるか」ということは、大きな関心事でもありました。
~九条兼実~
(保元の乱の祟りかどうかはわかりませんが)良経は早くに妻を失い、自分も若くして亡くなりました。良経の父親の兼実(かねざね)もまた、最後は朝廷での権力を失い、権力争いに敗れてからは、最後は「呪いから逃れたい」「来世は極楽浄土に行きたい」と、仏教の浄土宗に救いを求めるようになります。
兼実(かねざね)は、大学入試の日本史の問題にも時々出てくるので、覚えておきましょう(九条兼実の書いた「玉葉」は文学史の問題で時々出題されます)
~兼実の疑問~
兼実は、仏教に救いを求め、権力争いに敗れた後、浄土宗の法然に師事しますが、はじめのうち、法然などの唱える「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)=悪人こそ救われる、という教え」を、いまいち、信じることができませんでした。
善人が救われる、というならわかるが、本当に悪人であっても、信心さえすれば、救われるものなのだろうか、、?
誰もが抱くであろう疑問を持った兼実は、なんと型破りな発想を思いつきます。
それは、あえて「悪事」を犯し、自ら「悪人」となることによって、本当に、「悪人」が救われるのかを試そうとしたのです。
それまで、仏教の僧侶は、修験道などに見るように、食事も持たずに、山の中をひたすら歩き回ったり、とても厳しい修行をすることで、覚者となることを目指していました。
出家をするということは、世俗の欲を断つことなので、当然、色恋沙汰などはあってはならないし、妻を娶ることは、禁じられていました。
ところが、兼実は、なんと、自分の娘を慈円の弟子の僧侶に娶らせて(つまり、自分の娘を僧と結婚させて)、破戒僧(はかいそう=掟を破り、堕落したお坊さん)となった僧(自分の婿)が、果たして本当に極楽浄土に行けるかどうかを試してみよう、と、考えたのです。
~兼実と親鸞~
その破戒僧となったお坊さんこそ、かの有名な「親鸞」です。つまり、親鸞は兼実のおむこさんにあたります。
親鸞は、自ら、僧侶でありながら、あえて不邪淫戒(異性関係を持ってはならないという掟)を破り、破戒僧になることで、「悪人でも救われるのだ」ということを、世の中に示そうとしました。
親鸞は法然の浄土宗の思想をさらに深化させ、浄土真宗の開祖となりました。
~庶民にとって救いとなった念仏宗~
鎌倉時代は戦乱の世の中でした。
多くの人々が、明日の生活の糧もわからない不安な中を生きていて、
「罪を犯さずに生きる」ということが、難しい時代だったわけですね。
他人の畑から食べ物を盗んだりしなければ、飢えて死んでしまう、、そんな時代だったからこそ、多くの人々は生きていくために、様々な罪を重ねてしまう人々がたくさんいました。
親鸞は、このような貧しい人々、苦しむ人々を助けたい、と、考えます。
そして、厳しい修行をするのですが、親鸞は、やがて、厳しい修行から離れ、次のような考えを持つようになります。
それは、難しい教学を勉強したり、厳しい修行によらずとも、阿弥陀仏は、己の罪に苦しんでいる人々を必ず救ってくださる、という、強い信心です。
修行(善行)によってではなく、信心(信仰)によって、人は極楽浄土に生まれ変われる、と、考えるようになるのです。
金持ちや貴族、身分の高い人々(成功者)は、罪を作らずに生きていられるだけに、
自分の罪に悩むことはあまり、ありません。
でも、貧しい人々(失敗者 出世競争に破れた者など)は、世の中の闇の部分を知っているだけに、
闇にもまれながら生きていただけに、
その分「救いを求める気持ち」=「信心」が深くなります。
自分の罪に苦しんだことのない善人(難しい教学を学んでいる善人(成功者)。今で言う所の高学歴のエリート。うちの学校の生徒達のような優等生の人達のことです)よりも、
世の中からドロップアウトし、自分の罪を深く見つめ、自分の罪を自覚している悪人(失敗者)の方を、
仏はきっと救って下さるに違いない。
そう考えた親鸞は、
法然とともに、「悪人正機説」(悪人こそ救われるのだ)という教えを世の中に広め、
「善行」によって救われる、という従来の因果応報的な考え方とは異なる、
異質の教えを説いていきます。
「他人に頼ってばかりで自分からは全く努力しない人」に対して使われる語である「他力本願」という言葉は、
阿弥陀様の力にすがって救われるという意味からうまれた仏教用語です。
念仏(信心)によって極楽浄土に生まれ変わることを説く法然や親鸞などの思想を「他力思想」といいますが、
鎌倉時代は、親鸞はじめ、様々な個性的な仏教の名僧が出てきたので、
仏教がとても栄えた時代となりました。
~東福寺とロシア人捕虜~
ちなみに、良経には子供がいました。藤原道家といいます。
道家もまた、東福寺を支えた僧侶として有名です。
東福寺は、京都にあるお寺ですが、このお寺は、日露戦争時に、ロシア人の捕虜たちを収容していました。
日露戦争時には、
日本はロシア人捕虜を東福寺に収容したものの、
日本兵は、ロシア人捕虜達に、残酷な仕打ちを行いませんでした。
東福寺で収容されたロシア人達は、かなり自由な生活が許されていて、近くの竹を取ってきて、楽器を作るなどして、音楽を楽しむような余裕がありました。
東福寺には、ロシア人捕虜が作った楽器などが保管されています。
続く