儒家と法家 ①

~始皇帝美化の裏にあるもの~  

最近、中国では始皇帝を美化するドラマが作られたといいます。 日本でも 始皇帝を美化する内容の映画「キングダム」が作られ、中国もこの映画の制作にはとても協力的でした。エンターテイメントとしては楽しめる映画だったし「創作」として楽しむ分にはかまわないのですが、反面、言論弾圧を進める中国共産党が、こうした「始皇帝美化」を推し進める背景について、私たちは知っておく必要があると思います。 

 なぜ、そんなことを言うのか、日中の文化交流は大事なのに、それを批判するのは良くない、と思う人もいるかもしれません。

ただ、世界の情勢はあまりにも今不安定で、日本がいつ悲惨な戦争に巻き込まれるかは、予断を許さないような状況にあります。中国が、台湾や尖閣諸島、沖縄支配を目指している今、今後の日本の将来を担うことになる皆は、中国共産党について、しっかりと知っておく必要があるとおもったからです。


~教科書の改竄~

そして、なぜ、この「始皇帝美化」の動きに私が警戒するかというと、昨年、国家安全法の施行により、実質的に香港の一国二制度が終わりを迎え、香港では、ものすごい勢いで、今「教科書の改竄」がおこっているという現実があるからです 。

みんなは、「三権分立」という言葉は、小学生の時から知っている言葉でしょう。独裁者の出現を防ぐために、権力を三つに分ける仕組みのことですね。 

  ところが、この言葉は、昨年、香港の教科書から削除されてしまいました。「天安門事件」「雨傘革命」も消されてしまいました。このように、香港では、去年、歴史の改訂、改竄が進み、教科書が書き換えられ、さらには『聖書』までも書きかえられる、ということまでも おこりました。

~共通テストに出題された、ジョージオーウェルの「1984年」~

こうした中国共産党の言論統制や監視体制に対して、昨年、アメリカのポンペオ元国務長官は、ジョージオーウェルの「1984年」になぞらえて、批判しました。この本は、近年売り上げが急増しており、それを受けてか、今年の共通テストの世界史でも、「1984年」について、出題されました。この本は、監視社会、全体主義の恐さを書いたディストピア小説です。また、今年の共通テストでは、秦の始皇帝の焚書坑儒や、歴史の改竄についても出題されました。他にも、疫病にかかわる歴史など、時事問題を反映した問題が共通テストに出題されてました。国語でもアマビエなど妖怪の研究をされている先生の文章が出題されていましたね。ですから、受験勉強に臨むにあたって、私たちは、こんな激動の時代だからこそ、国際情勢のニュースを見たり、時事問題について、問題意識をもっていることが大切です。

  そこで、今日は、昨年香港でおこった「聖書書き換え事件」について紹介しながら、始皇帝が惹かれた韓非の「法家思想」の話につなげてお話してみたいと思います。(ちなみに、今年の共通テストでは、世界史で「法家思想」も「李斯」も出題されました。)


 ~書き換えられた聖書~  

さて、香港で問題となった聖書の書き換え(改竄)部分は、イエスが、ある娼婦をかばう有名なシーンです。 これは、キリスト教を学んだことがある人は誰もが知っている有名なシーンです。  娼婦(しょうふ)というのは、男性に身体を売って仕事している女性のことです。 娼婦ですから、結婚相手以外の男性とも性的な関係を結ぶわけですが、 イエスの時代、ユダヤ教の律法を厳格に守るパリサイ人(ファリサイ人)という人達がいて、この娼婦はパリサイ人たちに つかまり、しょっぴかれるんですね。 

ユダヤ教のモーゼの教えには、「姦淫するなかれ」(結婚相手以外の異性と肉体関係を結んではならない)という教えがあります。 だから、彼らは、その教えに背いた女性を、みんなで囲って、石を投げつけて処刑しようと(殺そうと)するわけです。 そして、人々がその手に石を握りしめ、女を囲っていた時、イエスが現れます。 

イエスは、はじめ、地面に何かを書いていたのですが、すっと立ち上がり、次のように言いました。  「汝らのうち、生まれてから一度も罪を犯したことのない者が、この者を石打て。」

人々は、イエスのその威厳ある言葉を聞いて、、女に石打たんとする気持ちが失せ、一人また一人と、その場を離れていきます。 

最後、誰も居なくなり、イエスは、女に優しくこう言います。 「私もまた、あなたを石打つことはできない。」と。

こうして、女はイエスに助けられ、悔い改めるわけですが、この有名な聖書のお話が 、去年、香港の学校では、次のように代わってしまいました。  

最後の場面です。

  人々が去った後、イエスは、こう言った。 「私も罪人です。しかし、もし、法律が汚点の無い人によってのみ執行されるなら、その法律は死んでしまうでしょう。」 

 そして、(イエスは)自ら、女を石で打ち殺したのだった。 

要するに、女を救い、その罪を許したはずのイエスが、正反対の「人殺し」にされてしまったのです。

 笑えない冗談のような話ですね。

 法が正しく施行されることこそが、国の平和と安定のために最も大切なことである 

この考えは、キリスト教というよりも、むしろ「法家思想」に近い考えといえます。 

おそらく、香港の聖書を書き換え、法律に従うイエス像を描くことで、 「香港の者達よ、民主化デモは国の秩序を乱す悪であり、捕まえられなければならない。国の安定のために、この法律(香港国家安全法)に従うことが神(イエスキリスト)の考えでもあるのだ」と言いたかったのでしょう。 

この、無謀な法治主義は、韓非の法家思想を彷彿させます。

中国の戦国時代(韓非の時代)は、まだ、現代のような人権の概念がありませんでしたから、法律は、独裁者の権力を確固とするとするための道具にすぎませんでした。それを「法治主義」と言っていたのですが、この人権軽視の法律に基づく「法治」によって、強力な中央集権国家をつくったのが秦の始皇帝だったのですね。

~②につづく~  


このブログの人気の投稿

読者へのお願い

イーロン・マスクのポスト