儒家と法家④
~中国の礼教と魯迅~
残念ながら、孔子の「孝」の思想は、時代を下るにつれ、ゆがめられ狭められ、ところどころで弊害を生み出すようになっていきました。
みんなは「家族」をどう思っていますか? 恵まれた家庭に生まれた人は、家族の存在はかけがえのない宝物に感じることでしょう。けれど、めぐまれない家庭に生まれた人は「どうしてこんな家に生まれてしまったのか」「早く自立して、家族のしがらみから自由になりたい」と思う人だっているでしょう。
10年近い昔、私は、不登校の子どもの世話をする仕事をしていました。その時面倒を見ていた生徒の中には、母親に虐待(ネグレクト)を受けて育ち、食事の習慣すら知らずに育った子もいました。朝ご飯とか昼ご飯とかいう概念がないんですよね。親がそもそも料理をしたことがないので、そういう子には、そもそも「食事の時間」という概念がありません。「お腹がすいた時に、カップラーメンなどを作って食べる」のが、「食事」なんですよね。なので、カップラーメンのような、味の濃いものばかりを食べて育っていたので、味覚障害がひどく、ものすごい量の醤油やソースをかけないと味を感じないんですよね。だから、調味料や香辛料をたくさんかけすぎて、塩分や糖分を取りすぎるので、内蔵にも悪影響を及ぼし、発達にも影響を与えてしまいます。
お弁当を作ってくれたり、料理をしてくれる親がいる、というのは、当たり前のようでいて、実は本当に本当にありがたいことです。
家族の つながりは大切だけど、やはり、この子の家庭のように、家庭環境には差があります。だから、子どもを虐待するような親を 「養え」とか「敬え」とか「従え」という教えは、やっぱり、一部の人にとっては、「苦しい」教えだと思うんですよね。
人には、思想や信条を選ぶ自由があります。特に道徳思想というのは「教養」として学ぶことは大切であっても、それを「画一化」し制度として「義務化」してしまうと、どこかに必ず歪みが生まれます。だから、道徳とか福祉というのは、重要なものではあるけれど、制度化(義務化)してはならない、というのが私の考えです。
ボランティアなどは、もちろん勧めるのは良いことだけど、国のもとに制度化して強制的にやらせるものではないと思います。
ところが、中国では、儒教は、残念ながら、封建制度のしがらみや、窮屈な道徳観念と一緒になって、強制化されるようになってしまいました。そうした古い道徳観念が礼教として近年、中国の人たちを苦しめました。
中国の有名な小説家に魯迅(ろじん)という人がいます。(世界史に出てくる重要人物なので覚えましょう。日本でも、国語の教科書に魯迅の文は出てきます)
魯迅は『狂人日記』という本で、当時の儒教文化に対して痛烈な批判をしているんですね。 当時の窮屈な儒教文化では、男尊女卑的な色彩が強く、良妻は病気の夫のために、自分の腕の肉を食べさせる、というような話まであって、女性が男性のために犠牲になることが、称賛されるような時代でした。魯迅は、そうした風潮に反発し、「儒教文化」を食人文化に重ね、食人文化からの自由を求めて苦しむ主人公の姿を、「狂人日記」という本に描きました。
魯迅が流行った時代の中国では、知識人たちは、古い封建的な思想や旧道徳としての礼教と、孔子の教えである儒教とを同一視していたため、儒教の教えは歪んで伝わり、窮屈極まりないものになってしまっていたようです。たとえば、礼教の教えでは、女性の再婚は許されません。 夫に死なれたら自分も自殺するか、母子家庭で貧しい中子どもを養うか、二つに一つしか許されなかったのです。
そうした背景から、魯迅は当時の儒教文化を批判したのですが、この魯迅人気をうまく利用したのが毛沢東でした。魯迅の儒教批判や国民党批判は、革命を志す毛沢東にとっては利用価値が高かったのでしょう。魯迅は毛沢東によって、「聖人」として、祭り上げられることになりました。
毛沢東は、文化大革命で、秦の始皇帝よろしく、焚書(党の思想に反する書物や文化を焼き払うこと)を行いましたが、魯迅の本は焼かれずに済んだので、それは、不幸中の幸いだったかもしれません。